日本の翼!ライト兄弟より100年も前に世界ではじめて空を飛んだ日本人!

2/23/2013 AppMama 0 Comments

『翼よ、あれがパリの灯火だ!』

この名言をご存知でしょうか!? 有名な言葉なので、一度は耳にしたことがあると思います。
この言葉は1927年に “大西洋単独無着陸飛行” を成し遂げた「チャールズ・リンドバーグ」の言葉で、なかなかロマンチックな響きですよね〜♡

昨日のブログで、このチャールズ・リンドバーグが愛した場所としてマウイ島のハナという町を紹介したのですが、その際、チャールズの思いがけない波瀾万丈な人生を知る由となりました。
>> 【ハワイ諸島の島々】第5回:ビートルズのジョージ・ハリスンも愛したマウイ島の見所!
とても興味深かったので、紹介します!


チャールズ・リンドバーグは、1927年5月20日、アメリカのルーズベルト飛行場を飛び立ち、翌5月21日にパリのル・ブルジェ空港まで “大西洋単独無着陸飛行” を成し遂げた世界的な英雄です。その時、彼はニューヨーク市−パリ間を無着陸で飛んだ 最初の 飛行士に与えられる名誉あるオルティーグ賞を受賞し、賞金25,000ドルを獲得しました。

ちなみに、オルティーグ賞を受賞する為に、彼より前に大西洋横断無着陸飛行に挑戦した者もいますが、着陸に失敗し、飛行機が破損するだけではなく、同乗者が亡くなっていたりと、当時はかなり命懸けの挑戦だったようです。それ故、チャールズが成功した際には、ル・ブルジェ空港に75万人〜100万人とも言われる観客が押し寄せたと言いますから、一夜のうちして彼は世界的大スターとなったわけです。

しかし、この華々しい歩みだけが彼の人生ではありません。

その後の1932年のこと・・・チャールズの息子(当時1歳8ヶ月)が誘拐され、身代金交渉後に殺害されて見つかりました。犯人は捕まったものの、この事件でチャールズはかなりの精神的ダメージを負い、心の傷を癒す為に訪れたのがマウイ島のハナだと言われています。そして後に、チャールズがリンパ腫瘍で亡くなる最期の地として選んだのもこのハナでした。

なんとも辛く悲しい出来事であり、一児の母であるAppMamaは、この幼い子供を殺害した犯人が許し難くおぞましい事件だと心苦しく思いました。

しか〜しっ!! 調べてみると事件は、未解決と言っていいほど曖昧な、後味の悪い終わり方だったのですっ!

捕まった犯人の名は “ブルーノ・ハウプトマン”。
ニューヨークのガソリンスタンドで、身代金と一致したお札を使用したのが、この“ブルーノ・ハウプトマン” で、彼のガレージからは身代金の一部が発見されたました。ハウプトマンは、知人から預かったものだとして関与を否定したものの、これが動かぬ証拠となり有罪判決、そして死刑が執行されたのです。
しかし・・・解決に見えたこの事件ですが、未だ不可解な点が多く、ハウプトマンは冤罪だったのではないかという意見も多数存在します。

最近では、殺されたはずのチャールズの息子が生存していたことが判明し、DNA鑑定からも実子であると判明されたそうです。
ちなみに、ハウプトマンにはアリバイがあり、犯行時刻に彼は、大工仕事をしていて現場監督もそれを認めていました。しかし、一転して、勤務時間が改竄され、アリバイが崩れたと言います。加えて、事件当初は、現場に複数人の足跡があったことから複数犯の犯行と言われていたにも関わらず、ハウプトマン1人の単独犯に塗り替えられました。
ハウプトマンは当時のニューヨーク知事に “自白をすれば終身刑に減刑する” と言われたにも関わらず、最後まで関与を否定していたと言います。

犯人は一体誰なのか!?本当にハウプトマンが犯人だったのか・・・「チャールズ・リンドバーグが犯人だったのではないか!?」という説まであり、なかなかスッキリしない事件であります。

とはいえ、未だにチャールズ・リンドバーグは英雄として語り継がれているわけで、大西洋単独無着陸横断という偉業を成したことには変わりません。
ちなみに、「飛行」に関して調べてみると、ライト兄弟が動力飛行機を発明するまでは、熱気球であったりハングライダー、つまり操縦者が足でこいで操縦する“鳥人間”の要領で空を飛ぶ事を実現していて、はるか昔から人々は鳥のように大空を羽ばたくことに憧れを持っていたのですが、実は、日本でも、今から200年以上も前(1785年)、岡山県生まれの“浮田幸吉”という男が飛行に挑戦したという記述が残されていて、その逸話が面白いです。

飛行を成功させたことで有名なのは、ライト兄弟であり、この兄弟が世界で初めて飛行に成功したと思いがちですが、ライト兄弟は前にも述べた通り“動力飛行” なわけで、気球やグライダーを含め空を飛ぶ事に挑戦した人で記録にある中では、この“浮田幸吉” は注目すべき日本が誇る人物だと思います。

幸吉がどんな方法でどんな飛び方をしたのか紹介する前に、ライト兄弟の飛行機をご覧下さい!
ヘリコプターやジェット機とは比べ物にはなりませんが、今の飛行機の原型であり、基本の骨組みだということが見てわかります。

では、我ら日本が誇るべき幸吉の飛行がこれ!
身体を張った飛行はまさに、「よっ! 鳥人間っ!  あっぱれ〜」と思わず声をあげたくなるような飛びっぷりであります(笑)

幸吉は、幼い頃から鳥に憧れ、どんなメカニズムで鳥は飛ぶ事ができるのか、飛び方を観察したり、体重と羽の比重を計算したりと熱心に研究したそうです。そして、研究した結果、竹を使った翼を作り岡山県にある旭川にかかる京橋から飛び降りました。
当時、空を飛ぼうと考える者はおらず、突拍子もない行動に、すぐに岡山藩士に捕まり牢獄に入れられてしまい、更に今でいう追放というところの “所払い” となってしまいました。所払いになった幸吉は駿府の府中へ行き、また懲りずに飛行の研究を始めます。
50歳になった時、研究に研究を重ね翼をつくり、また河原で飛行することを実現させたのです。うまく飛べたという説もあるのですが、どちらにせよ、また町奉行所に呼ばれ牢獄の身に・・・そして、ここも“所払い”となってしまったのです。
この先、幸吉がどうなったかはっきりしたものはなく、現在の静岡に身を寄せ91歳の天寿を全うしたという話もあれば、死罪になったという残念な説もあります。

この話はライト兄弟が飛行する前の100年以上前の話なのですから、もっと幸吉は日本のみならず世界に名を残す人物と言ってもいいのではないかとも思ったりします。
浮田幸吉という人物は、あまり知られていませんが、時代が時代だった為に奇人変人の目で見られ、本当は偉業であったにも関わらず罰せられてしまったこの浮田幸吉から見習うことは多いと思います。変人にみられようが、世間の目が厳しかろうが、翼を作る為に熱心な研究を怠らなかった幸吉には脱帽です。やはり、情熱、揺るがない精神を持っている人は、いつの時代も偉業を成すことができるし、その精神を持ち続けた者が夢を叶えることができるのかもしれません。幸吉の最期がどんなものであったとしても、空を飛ぶ事ができたその夢を叶えることができてさぞかし嬉しかったでしょうし、人生を謳歌したに違いないと思います。

AppMamaの夫もアプリ開発者で、安定しない職業柄、世間からは “夢見がち”、“地に足がついていない” などのイメージを持たれることもあるけれど、このアプリ業界も始まったばかりなので、幸吉同様、まだ風当たりは強い気がします。しかし、困難に何度ぶつかろうとも、自分の才能を摘むようなことはして欲しくないというのがAppMamaとしての願いです。これから発展する可能性を秘めた業界、それ故、ライバルも多く、成功者と呼ばれるに人は一握りであるという厳しい環境ですが、「夫は必ずやり遂げられるんだ!」という信念を私も強く持ち続け、日々邁進していこうと思います。

平成の“浮田幸吉”を目指して・・・

それでは、今日はここまで〜See You☆

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