教科書には載っていない日本人が知るべき史実・ニイハウ島事件!
いきなりですが・・・「ニイハウ島」という島をご存知でしょうか!?
私はつい最近までこの島の名前も、この島がハワイ諸島の1つであることも知りませんでした。
それもそのはず、ニイハウ島は個人所有の島で、観光として訪れる事ができない島なので、当然ガイドブックなどにも出てきません。
この島はハワイ王国の時代、1864年にカメハメハ5世がスコットランド人のエリザベス・シンクレア夫人にピアノ1台と10,000ドルで島民も含め売ってしまった島だからです。現在もその末裔であるロビンソン一家が島を所有しています。
実は、この島は日本と深い関わりがある島で、日本人だからこそ、ニイハウ島で起こった “ある事件” について知っておくべきかもしれません。
デリケートな事件なので、これまでどう書いていいのか迷っていましたが、歴史を知る事、知ろうとすることがまずは大事だと思うので、今日はニイハウ島で起こった “ある事件” について書いていこうと思います。
その “ある事件” というのが『ニイハウ島事件』と呼ばれるものです。
1941年12月7日・・・ニイハウ島に一機の戦闘機が不時着しました。
その戦闘機は西開地重徳(にしかいち・しげのり、当時21)という零戦操縦士が乗った「飛龍」という空母所属の真珠湾攻撃を命じられた零戦でした。
しかし、銃撃を受けてしまい、多分、攻撃することも母艦に還ることもできない状況だったのだろうと思います・・・この西開地が操縦する空母は、救護を待つためにニイハウ島に不時着しました。このニイハウ島は、いざといういう時の緊急着陸地として指定されていたようです。
ちょっと話は逸れますが、こんな言葉を聞いたことがあります。
『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ』
当時の訓令であり、日本兵のみならず民間人までもがこのような教育を受けていたので、自爆や自決といったことは覚悟の上であったのだと思われます。
戦争という時代に生まれたが為に、死を持って攻撃に加わった若い命や、お国のためだと命を投げ打った日本兵、そして戦争によって失われた多くの命・・・戦争とは深い悲しみと苦しみといった負の連鎖しか生み出すことができない無意味なものであるとつくづくと思います。
話は戻ります・・・
西開地が操縦する零戦ですが、自爆することなくニイハウ島という小さな島に不時着しました。
現在もそうであるのですが、ニイハウ島は個人所有の島であり、所有しているロビンソン家とその一家に使える使用人、そしてその土地で暮らしている純粋なハワイ人が住んでおり、今でも外部の人間が簡単に上陸できる島ではありません。
外部との接触が断たれている島ですから、この時点で真珠湾攻撃のニュースも知らなかったようです。
西開地が不時着すると、住民達はハワイ式の歓迎パーティーを開いて彼をもてなしました。
しかし、問題が1つ・・・不時着した時に、ハワイ人のカレオハノが西開地の銃と書類を取り上げてしまいました。
アメリカに渡しても何の意味もない書類でありましたが、西開地はこの書類を取り戻そうと必死に英語と日本語を交ぜながら住民と話そうとしました。
しかし、ハワイ語を使う彼らには西開地が話している事を理解することができません。
そこで、住民達はニイハウ島に住んでいる日系人を通訳としてよびよせまし
その通訳が “シンタニ” と “原田義雄” という ハワイ生まれのアメリカ人二世で、特に原田とは友好的な関係を築いていたようです。
そうしている間に、真珠湾攻撃をラジオで知ったニイハウ島の人々は、日本兵である西開地を警戒し、監視役をつけて原田家へ移しました。
そして、西開地が不時着して5日目である12月12日、事態は急変します。
シンタニはカレオハノに銃と書類を返す様に説得に向いました。しかし、カレオハノはその説得に応じることはありませんでした。
そこで、西開地と原田は、西開地の監視役を襲って銃を奪い、監視役であった住民を人質を取ってカレオハノの家へ出向きました。
しかし、カレオハノが見つからず失敗に終ります。
実は、カレオハノは隠れていて、西開地と原田が住民を人質に取っていることも知っていました。
カレオハノは村へ行き、この事態を村人たちに話し、避難するように言いましたが、これまで一緒に住んできた原田がそんなことをするわけがないと聞き耳を持ちません。
ところが、別の捕われていた監視役が村へ逃げ帰ると村人たちは話を信じ逃げ出しました。
12月13日、ベニ・カナヘレとその妻エラが西開地と原田に捕まり人質になります。
西開地と原田はカナヘレにカレオハノを探す様に命じますが見つかりません。
カレオハノは、ニイハウ島の所有者であるロビンソンにこの事態を伝えようとカウアイ島へ向っていて、すでにニイハウ島にはいませんでした。
カナヘレはそのことを知っていてわざと探すふりをしていたのです・・・が、その “ふり” も原田に見破られ「カレオハノが見つからないのであれば、村人全員を殺す」と脅したのです。
しかし、カナヘレと妻のエラは隙をみて逆襲します。西開地が原田に散弾銃を渡した隙に二人に襲いかかりました。
その際に、カナヘレは足の付け根と腹部、太股を撃たれましたが、西開地を岩壁に投げつけ、エラが西開地の頭部を石で殴りました。そして、カナヘレが西開地の喉をナイフで切り裂いたのです。西開地が死に、それを見た原田は散弾銃で自殺したそうです。
これが『ニイハウ島事件』と言われるもので、この事件によって “日系人はアメリカ市民だろうが信用ならない” というような疑念を抱かせる要因ともなりました。
たった数名の日系人と島民の間で起きた事件は、日系人の強制収容に至る決定に影響したとまで言われています。
この事件での余波はあまりにも大きく、また当時、日本がアメリカと戦争を起こしていたという背景もあって、日系人の差別、強制収容というような悲しい歴史も存在します。
どちらが悪いということは言えません。
西開地の視点から見れば、日本兵として銃や書類をアメリカ側に渡せないという思いもあったでしょう・・・ニイハウ島の住民の視点からすれば、真珠湾攻撃を受けている状況で日本兵に対しての不信感は拭いきれず、そして村人に危害が加えられないよう銃や書類は万が一の為に取り上げておきたいという気持ちも分からなくもありません。
シンタニや原田の視点からすれば、アメリカ人でありながら日本人というルーツを持つ者として、西開地を助けてあげたいと思う心も察することができます。
物事は表面的なことばかりで判断できないもので、表の面と裏の面が必ずあります。
大事な部分は、見えない部分にあるものです。
このニイハウ島事件で言えば「日系人は状況によって忠誠心を覆す」と捉える見解もあったようですが、それは表面的結果論です。
真実は、それぞれの立場で考えなければいけません。偏った見方は、偏見や差別に繋がるのです。
しかし、その一方では『442日系部隊』という日系人で編成された部隊があり、アメリカの為に志願して兵士になり戦った部隊があります。
根底には日系人への差別が横行する中で「私達もアメリカ人だ!」というアメリカへの忠誠心の現れだったと思います。
この部隊は、ヨーロッパ戦線に投入され激戦を繰り広げ、アメリカ史上最強の陸軍として数々の勲章を受けました。
このことが、日系人への人種差別の撤廃に繋がったと言われていて、この部隊は日系人の誇り持って命をかけて人種差別を無くそうと激闘したのだと思います。
日系人というだけで、当時は人種差別にあっていましたが、追い打ちをかけるように「ニイハウ島事件」、そして日本が真珠湾を攻撃したことで更に状況を悪化させたのは言う間でもありません。強制収容される日系人、酷い差別と貧困・・・当時の日系人の方々が苦労の耐えない社会だったと思います。
パールハーバー太平洋航空博物館では、「ニイハウ島事件」の史実が残されています。
不時着した零戦もここに展示されているようです。機会があれば訪れてみたいと思いますが、私達が日々平和に暮らしていけるのは、ほんの70年ほど前の日本人、日系人、そして無意味な戦争によって命を落とした人々によって成り立っているということを忘れてはいけません。
どんなにハワイの海が青く澄んで見えても、この太平洋で命を落とした人々がいるという事実は消えることはなく、忘れてはいけないんだと思います。
通りすがりで失礼します。
返信削除空母というのは航空機を載せる艦船のことで、航空母艦の略です。
そしてその船の名前が「飛竜」です。
西開地さんが乗っていたのはその空母「飛竜」に搭載されていた戦闘機のうちの1機で、あの有名な零戦こと零式艦上戦闘機です。
あまり知られていない史実を紹介されるのは大切なことと思いますが、あまりにも気になったのでコメントを付けさせていただきました。
今朝NHKのラジオでこのことを知りました、78歳になる今年まで知りませんでしたのであわてて調べて驚きました、多くの方に知ってもらいたいことです
削除もう一度よく読んでみて下さい。
削除貴方の説明通りに書かれてますよ。揚げ足を取る前に確認したらいかがですか?